ゅあーるえる

万物は自己満足に収束する。

理解の先にあるもの

わからないものほど、怖いものはない。

されど、わかっているほど怖いものもない。

 

以上、矛盾。

 

どれだけ

経験しても、体験しても、時間を費やしても

 

忘れるし、覚えきれないことはある。

 

でも、いつまで経っても何があっても忘れないことはある。

 

あった経験

なるほど関心

わかった理解

 

次は?

 

感覚どうこうの話じゃない、無意識の領域。

 

癖のように、口から吐く息のよに。

 

事象を理解したとして、理解が100パーセントだと誰が決めた?

 

わかっているで済ませられるなら、声帯なんていらない。

 

示せ。動け。

脳は何を制御している。

 

身体はどうやって動かす?

理解して、一つ一つ動かすのか?

そんなものはマニュアルとプログラムだけでいい。

 

理解して動かす身体の時点で既に出遅れ。

気づいたら動いていたのが、はるかに速い。

 

まず考えず、動く。

して考える。

ナニヲすべきだと。

 

 

変わりたいのだろう?

加速度0で何ができる。

1でいいから。いや、0.1でもなんでも。

足の小指でもなんでも動かしてみろ。

それが”変化”だ。

前回値参照してみろ?

動かない自分から一ミリちょっと動いたかどうか知らんが、変わった。

 

その延長線上であることを忘れるな。

 

変わったかどうかが周りが決めるって?

んなのに気を遣う余裕あるなら、足の親指まで動かせ。

 

それを繰り返してみろ。絶対同じ動きなんぞできんからな。

 

それだけで、たったそれだけで。

 

”変化”なんて訪れてしまうんだ。

 

理解より動かすことが つながり をもたらす。

 

 

ゅあ