ゅあーるえる

万物は自己満足に収束する。

太陽

夜が明けたから、日が出るのではない。

日が出たから夜が明けて、天地が明るく、万物が眠りからさめて、生々と活動をはじめるのである。

夜になっても、太陽はなくなったのではない。

地球はいつも太陽の明光の中につつまれ、温熱の胸にいだかれている。

ただその半分だけは、静かに休ませて、明日の働きを一段と活発にさせるために、黒のヴェールでつつんでいるのである。
希望は心の太陽である。つごうがよいから希望を持つのではない。

一生に二度と出くわせことの出来ぬ仕事だから希望を持つのである。

天から与えられた命、親からいただいた体、世界にたった一つのこの肉体だから、その前途にもえるような希望を持つのである。

一時の苦しみ、しばしの痛み、それは更に大きく、いよいよ健康に進み高まるための、しばしのくらがりである。

これが去ったとき、夜明けのような公明の舞台が開ける。

雨後のような晴ればれしさがめぐってくる。夜になったといって、だれが悲しむ者があるか。

休みの時がきたのだ、すでに明朝が近づいたのだ。必ず明日がくる。

悲観は、雲である。憂いは、霧である。

 

うまく行かぬから、望みを失うのではない。望みをなくすから、崩れて行くのである。

みかけがよく見えたり、悪しく見えたりするのは、ただ表面の変化であり、一時のきまぐれで、かえっておもしろい事である。

それは、すでに大きくのびるための、一時の屈曲であり、高くのぼるためのふんばりである。

太陽の光と熱とが無限であるように、希望はいくら燈しても尽きる日はない。

いくら高めても、高すぎることはない。

太陽の焔、天日の輝き。
希望は、常に若々しい。
希望は、永遠の光である。